動物愛護関連の情報と、独学ピアノの記録。

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小説・エリートサラリーマン最終回(全5回)

 

タン タン タン タン ボールを地面に叩きつけるような音が響く
タン タン タン タン 永遠に続くかと思われるような音

 

 広義は眠っている間、ずっとその音が聞こえていた。心地よい音、広義の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

やがて暗闇の中で、白と黒の六角形をつなぎ合わせた、丸いサッカーボールがぽつんと浮かぶ。子供の頃、夢中で遊んだサッカーボール。公園で日が暮れるまで遊んだサッカーボール。
あの日、僕はサッカーをやめた。
「もうサッカーはしないの?」
「うん」
「嫌いになったの?」
「……」

違うよ!サッカーやりたいよ!

心のどこか奥で響く声、彼はそれを置き去りにした。何事もなかったと思い込んだ。いつしか、部屋の隅にぽつんと置かれたままのサッカーボール。まるで、彼の心の隅にぽつんと残った思いのごとく。

 

タン タン タン タン ドカン!
衝撃が走った。
「何をしているの!」麗美の声がする。
「病院にそんなもの持ってきちゃダメじゃない。」麗美が息子の優をたしなめる声。
「いいんですよ。私が持ってきたんですから。」
広義は、ベッドに何かが当たったような衝撃と、聞きなれた、でもなつかしい声に目を覚ます。そこには、広義の母の小夜子と、広義の息子の優がいた。広義が目を開けたことに気付いた小夜子は、広義の寝ているベッドの傍に行き、話しかける。
「広義、倒れたと聞いてびっくりして慌てて駆けつけたのよ。でも、思ったより顔色いいじゃない。この間、スーツ姿の貴方に会ったときよりも元気に見えるくらいよ。」
小夜子は少し安心したのか、明るくそう言った。
「パパ、サッカーしよう。」優が言う。
「バカね、出来るわけないでしょ、パパは病気なのよ。」と麗美。
「知ってるよ、治ってからだよ。すぐ治るんでしょう?パパいつも元気じゃない。」
 あれは、サッカーボールだったのか。ベッドの脚に感じた衝撃について広義は思う。
「良くなったら、遊ぼうな。」広義が優に優しく言う。
「約束だよ、パパいっつも遊んでくれないんだから。」
優はまたボールを床につき始めた。
「い・け・ま・せ・ん。病気のパパに当たったらどうするの。」
優はちょっとすねたようだが、小夜子が紙袋を開くと、素直にボールをその中に入れた。広義は、その姿を口元に微笑を浮かべて見守る。その表情はいつもの「完璧な」笑顔とは違う穏やかな笑みだった。
「あ、そうそう。」
 小夜子が、その紙袋の奥に両手を入れ、もう1つ何かをとり出した。それもサッカーボールだった。しかし、先ほど優が遊んでいたものよりずっと古く汚れている。広義の目が、驚きとなつかしさで見開かれていく。
「これね、あなたが倒れて意識不明だと聞いて、もしあなたの意識が戻らなかったらどうしようって思って持ってきたの。この感触を感じれば目を覚ますんじゃないかって思って、ただ無我夢中でつかんで持ってきたのよ。あなた、子供の頃、急にサッカーやめてしまったけれど、大好きだったから、すごく楽しそうだったから、もしかしたら気が付くんじゃないかなんて思って。幸い必要じゃなくって安心したけどね。」
広義は、母の持つボールの方へ手を伸ばした。
「借して」
小夜子は、広義にボールを渡す。それを受け取った広義は、ボールの感触を両手で感じた。なつかしい感触、ボールに夢中だった頃の。
「よく遊んでたもんなあ。」
広義は瞳を穏やかに輝かせる。広義は、ボールを軽く右手で投げ、頭でトンとはじいた。
「何をしているの!安静にしてないとダメじゃない。」
麗美が声をはりあげると、広義は少し舌を出していたずらっぽく笑った。

 

 それから1ヶ月が過ぎ、広義は点滴を打たなくてもいいまでに回復し、退院することになった。しかし、病院であまり動くことはなかったために、体力が落ちていることは明らかであった。退院直後のリハビリも兼ねて、広義は約束どおり息子とサッカーをすることにした。

 昼食を取ってしばらく休憩し、日中を過ぎた午後、優と2人で近くの公園に向かう。その途中、優が言った。
「僕ね、ずっとパパと遊びたかったんだよ。でもパパって日曜日もいないんだもん。」
広義は困った。「そっかー」、と言い、軽く苦笑する。思わず、優や麗美のためだと言おうとしたが、それは偽善だと思った。現に妻は共働きだというのに、自分の仕事が終わってからも帰りの遅い広義、休日さえも時に出勤している広義のために、夕食を準備して家事も全部こなしている。昔は小さな優の世話まで全部やらざるを得なかった。そして、今は優が全然遊んでくれない父親だと言っている。現在の収入は十分で、貧困とは遠い。毎日のように残業する理由は家庭にはない。

 公園についた2人は、向かい合って互いにボールを蹴りあった。優はまだボールになれていないため、広義のいる場所とは3メートルも離れたところにボールを蹴ってしまったりする。その度に広義はボールを拾いに行くのだが、ボールを拾い、元のポジションに戻る途中、軽快にボールをさばいてみせる。優から見ると、それは手品のようだった。
「パパ上手いなあ。」
優が感心する。
「パパは昔サッカーをやっていてね、サッカー選手になろうかなあって思ってたんだよ。」
「へえ、じゃあなんでサラリーマンってやつなの?」
「それはね……」
広義にも分からなかった。
「もしかしたら会社から、周りから望まれるままかもしれないな……そして、勝つためだったのかもなあ……」
「それって楽しい?なんで勝たなくちゃいけないの?」
「楽しくは……ないよ。むしろ……」
苦しいさ。広義は、そう言いそうになった自分に驚いた。今まで、それを「苦痛」とは感じたことがなかったからだった。仕事を離れるほうがよりいっそう不安だったのだから。
 広義はボールを高く蹴り上げた。
 2度、3度、空に向かって思い切り蹴り上げる。息子が手を叩く。日が傾いた辺りは、薄暗くなりかけている。5度目、広義は今まで以上に思い切りボールを蹴り上げた。空に一番星が光っている。広義の蹴ったボールが一番星に重なる。その時、広義には、まるでサッカーボールが一番星のように輝いて見えた。
 広義の胸に、ずっと夢の中で思い出そうとしても思い出せなかった言葉が、あの言葉がよみがえってきた。彼と一緒に、一番星を見つめていた夕暮れ時、母は一番星を指差して、広義にこう言ったのだ。
「あなたが好きなことをして目を輝かせていることが、あなたの心からの笑顔を見ていることが私には幸せなの。好きに生きて。私は広義が大好きだから。」


「サッカーをやっていることが楽しいよ。」
広義は、空から輝きながら落ちてくるサッカーボールを両手で受け止めると、言った。
「ねえ、パパ」優が言う。
「僕、負けてもかっこいいパパが見たいよ。」
広義は笑った。
「負けてもかっこいいか、考えたこともなかったな。今度から、それを目標にするか。」
目標、彼はいつもそれに向かって突っ走ってきただろう。だけど、勝つことを、全てにおいて優れることのみを目標にしてきた彼が今、そう言って楽しそうに笑うのだった。その表情には、今までのただきらきらした笑顔に加え、心の輝きを感じさせる瞳があった。

 

 1ヶ月後、広義は仕事に復帰していた。コーヒーとロールパンにサラダという朝食を済ませるとシャワーを浴び、20分かけて髪をセットする。そして、ビシッとアイロンのかかったシャツに着替えると、ネクタイを締め、スーツのジャケットにほこりが付いていないかをチェックし、ジャケットをはおる。そして、最後に彼は、玄関の全身が映る鏡の前で、全体のバランスをチェックした。黒に近いグリーンのスーツに、薄いグリーンの地のシャツ、1月という新年の期間らしくエンジ色の地のネクタイに和風の花が上品に小さく1つ描かれたネクタイが、広義の色白の肌を映えさせ、はつらつと見せる。広義は、「よし」と小さくつぶやくと、綺麗に裏まで磨かれた革靴を履き、ビジネスバッグを持つと玄関を出た。

 玄関を出ると、ビジネスバッグにサッカーの試合のチケットが2枚入っていることを確認する。今日は、午後3時から有給休暇をもらうと、会社からまっすぐ優の小学校に優を迎えに行き、スタジアムでサッカーの試合を見ることになっていた。
 広義は玄関の前の車庫に停めてある彼の3ナンバー車に乗り込むと、テキパキとシートベルトを閉め、会社までの道を運転する。

 よく晴れた早朝の空には、明けの明星があった。

 

 彼の心の星は、彼にとっての本当の彼の姿は、たとえ彼からは見えない時でも、たとえ今輝いていなくても、いつも彼の心の宇宙に存在している。いつでも見守っていたし、これからも見守っているよ。まるで、そう告げるかのように優しく、白く、明けの明星は空に浮かんでいた。

 

 

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小説・エリートサラリーマン第4回(全5回)

 

松田広義。松田小夜子の1人息子。彼は父親を知らない。彼が生まれてすぐに父は家を出て行ったのだから。父はどこぞやのヤクザの下っ端だったという噂があったが、真相は定かではない。母の小夜子は親戚に借金までして苦労して彼を育てた。小夜子の家ももともと貧しかった上に、小夜子の母は病気で入退院を繰り返していたのだ。そんな中、親戚の中でも息子のことをチンピラの息子だと言われたり、なかなか返せなかった借金を早く返すようにと嫌味を言われ続けていた母は、広義にそれを気付かれまいとして、彼の前ではいつも笑顔であった。
 彼は、母が時々部屋で1人泣いているのを見たことがあった。広義が小学生になったある日のことである。広義と同じクラスで、広義の従兄弟にあたる和紀が家の前に来て「チンピラー」とはやし立てたのである。それを聞いて、家の前でサッカーボールで遊んでいた広義は、思い切り和紀に向かってボールを蹴った。それは和紀の顔面に当たり、彼は鼻血を出して倒れた。
 和紀の母は激怒した。そして、謝罪を求めに来た際にいつまでも嫌味を言い続け、ついに広義の前で、「チンピラの息子だから態度も頭も悪いんでしょ。借金返しなよ、親戚一同の恥だわ。」とまで言ったのである。母親は涙をこらえきれなかった。広義が、ごめんなさいと謝ると、無理して笑顔を作りながらも流れ落ちる涙を止めることは出来なかった。
 広義は猛勉強した。その日から。追いかけてくる「恥」という言葉を振り払うかのように。そして、次の算数のテストで100点を取ったのだった。クラスで1人。息子の成績を鼻にかけていた和紀の母は、それはまぐれだと言いまわった。しかし、広義の好成績は続く。そしてとうとう、学年でも評判の秀才とまで言われるようになると、和紀の母は息子の成績の良し悪しについて触れることが出来なくなった。

 母さん、そして母さんの愛した父さんも僕を自慢して歩いて下さい。恥なんかじゃありません。あなた方が恥だと感じたことは、必ず僕が消して見せます。彼は、家族のトロフィーのように自らを飾り付けた。学業成績、ファッション、ヘアスタイル、笑顔、表情、動き、話し方。全てを優雅でスマートかつ知的に、そしてさわやかに飾りたてる。皆が振り返る。やがて誰も彼を笑えないどころか一目置くようになった。
 テストの点数はおろか、スポーツの成績、服や持ち物の趣味のよさ、バレンタインデーのチョコレートの数まで、彼の右に出るものはいなかった。しかし、それは、全てに勝たねばならないという無意識の強迫観念と、それによる努力の結果だった。


 まぶたの裏側、星がちらつく。薄闇の中、星がまたたく。俺の星はどこだろう……どれだったのだろう……薄闇の中さまよい歩く。
「広義、広義!」
誰かの呼ぶ声がする。妻の声?
あれ?仕事をしていたはずだったが……。彼は自分のまぶたが重く感じることに気が付いた。こんなことをしている時ではない!彼は、重さに逆らって目を開こうとする。やっと開かれた目の前には、眼鏡をかけた見知らぬ男の顔があった。よく見ると、その男は白衣を着ているではないか。医者?そして、その隣では妻が心配そうな表情でこちらを見つめている。
「気がつかれましたね。」
白衣の男は、彼を見て淡々と言った。
「極度の疲労とストレスにより、全身の毛細血管の破裂を引き起こしています。胃潰瘍も併発していますね。以前から疲れを感じてはいませんでしたか?」
広義は、自分が今、病院のベッドの上にいて、目の前の男が医者であるということを認識すると、答えた。
「はい、多少。」
多少のはずはないのだが、疲れた態度を人前で見せることが出来ない彼のいつもの癖である。医者は続けた。
「全治2ヶ月はかかります。場合によってはもう少しかかるかもしれませんが様子を見ましょう。まず1ヶ月は入院ですね。」
広義は諦めたかのようにため息をついた。2ヶ月も治らないとなれば、仕事はどうなるか分からない。少なくとも来年までに課長になるのは絶望だろう。広義はぼんやりしていた。
 病室には検査器具が持ち込まれ、まず血圧が測られた。血圧の最低値、最高値とともに多少高いもののほぼ正常値であった。
「職場高血圧と呼ばれるものです。職場での過度なストレスにより、血圧が上昇する症状です。」
医者の説明が耳に入ってくる。しかし、広義はぼんやりとしたままだった。

 広義の妻の麗美が、病院に広義の着替えなどの荷物を運び、入院の準備が終わる頃には面会時間も終わろうとしていた。麗美が、
「あなたのお母様には連絡しておいたわよ。新幹線で向かうということだから、明日の朝には来るそうよ。」
と言うと、彼はぼんやりしたまま小さくうなづいた。日が暮れかけていた。
「カーテン閉めておく?」とたずねる麗美に広義は、
「いや、開けておいて。」と言い、少しの間の後に、
「することもないし、星でも見ながら眠ろうかなあ。」
とつぶやくように言った。麗美は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに少し微笑んで、
「めずらしいじゃない。」と返した。
 麗美が病室を後にすると、広義は、星の輝きだした窓の外を眺めた。少しずつ辺りが暗くなる。夜空に、一番星が輝き出す。そして、1つ、2つ、3つ周囲の星が輝き始める。宵の明星は周囲の星を明るく導くように、よりいっそう明るくなる。広義は、ぼんやりと星を見つめながら、まるで子供の頃にそうしたのを思い出したかのように、右手の人差し指で星を指差した。震える手で。そしてつぶやいた。
「サラリーマンとしての俺。課長補佐としての俺。家庭の父親としての俺。生徒会長だった俺。陸上競技のインターハイの代表選手だった俺……ただ勝ってきた、働いてきた……」
そして次に出てきた言葉は、普段の彼ならまず口にしない言葉だった。
「俺の人生これでいいのか……ただ働いている、出世もした、来年は課長になって……これでよかったのか、まだ他に何かあったんじゃないかな……」
その彼の姿は儚く、夜空に消え入りそうに見えた。毛細血管が切れ斑点を残したままの右腕で、宙をさまよう彼の指先。だんだん意識がもうろうとしてくる。
 
 ただ勝ってきた がむしゃらに勝ってきた 

 幸せになれると信じて いや、それしかなかった 

 一番だよ 誰にも負けないよ 

 ねえ僕を見て 

 皆が僕を振り返るよ 星をみるように目を輝かせて 皆が振り向くんだ 

 母さん 父さん もう大丈夫だよ 恥ずかしくないよ 

 顔を上げて 悲しい顔をしないで 

 僕が家族の星になるから 誰よりも輝くから 

 

 ねえ 僕を見て 僕を愛して

 

「そうだよ 俺は 一流企業の エリートサラリーマン……」

彼はそのままぐったりと力尽きたように目を瞑り、眠りに落ちていった。


   夜空に輝く一番星  暗闇照らす一番星
   あの星になりたくて あの星になりたくて

 


 COPYRIGHT(C) 2006 蒼鳥 庵 ALL rights reserved

 

小説・エリートサラリーマン第3回(全5回)

 

彼は、自分の体が汗でぐっしょり濡れていることに気が付いた。辺りを見回す。夢か。見回すと同時にカーテンの向こうが明るいのに気が付く。もう朝なのか?まずい、寝過ごしたか?枕元にセットしていたはずの目覚まし時計に目をやろうとしたが、枕元に時計はなかった。床を見回すと、布団から少し離れたところにあった。寝ている間に弾き飛ばしたのだろう。起き上がろうとするが体が動かない。日々の疲れが溜まっているのだろう。彼はやっとのことではいあがるように起き上がると、はじき飛ばした目覚ましを拾って見る。5時30分。なんだ、まだ早い時間だ。彼はほっとすると同時に、外がカーテン越しといえどやけに明るいことが気になった。 彼は立ち上がると、カーテンとレースのカーテンを同時に開き、窓を開けた。外はグレー色で薄闇といったところだった。空を見上げるとまだ星が薄く瞬いていた。明るさの正体はこれだったのだろうか。彼は空を見上げた。
「小さい頃に夢見た星」広義はつぶやいた。俺が憧れていた星はどれだったかなあ、もう長いこと空なんか見ていない。薄闇がだんだん明るくなり、星が消えていく……
1つ、2つ、また1つ、2つ。

 太陽光がビル街の向こうから1筋の光を飛ばす。1つ、2つ、3つ……星は消えていく。広義の胃がキリッと痛んだ。広義は思わずみぞおちの辺りを押さえる。太陽の光が一段と眩しくなっていく。
「朝だ、仕事だ。」
午前6時、彼は切り替わる。戦闘モードに。それと同時に、彼の心は眠りにつくのだった。

彼は窓を閉め、朝食をとろうと台所に向かう。コーヒーを入れるために、ドリッパーを棚から取り出したところで、また胃がキリリと痛んだ。彼は思わずうずくまる。
「今日は朝食はやめておこう。胃薬を飲んで出社するか。」
総務課から引き受けた仕事の件もある。今日は体調が悪くても出社しなければならない。彼に出社しなくてもよい日などないに等しいのだが、彼はそう思った。
 胃の痛みを感じながらも、なんとかスーツに着替え、玄関の鏡でいつものように全身をチェックする。服の色あわせ、髪型、そして表情……そこには、いつもより顔色の悪い疲れた表情が映っていた。しかし、彼はこうつぶやいた。
「出社しなければならない。自分が行かないと仕事がはかどらないんだ。」
それは自分に言っているのか、会社のためを思って言っているのか分からない独り言だった。
 革靴を履き、玄関を出て、車に乗り込む。彼は、ときおり胃を抑えながら車を運転した。並木道のある2斜線の郊外の道路から、ビル街の4斜線の道路に入る。会社に着く頃にはだいぶ痛みは落ち着いたようだった。薬が効いてきたのかと、彼はひとまず安心した。
 社内に入り、エレベーターを使って、廊下を歩き、3階の彼の課の扉を開ける。また胃がちくりとしたが、彼はそれを人に悟られることはなかった。いつもの笑顔、いつもの振る舞い。彼は文字通り「完璧」なのだから。

自分の席に着くと早速、昨日総務課から受け取った書類に目を通す。その書類の内容は、彼の既知の部分ではあったが、意外な計算ミスを発見したために訂正に時間がかかり、また提出が遅れることになってしまった。彼は頭の中で、今日のノルマにかかる時間をはじき出した。明日の準備込みで今日は夜の10時になるだろう。しかし、1つ何かあると重なるもので、今度は入社3年目の受注係をやっている課の部下が、頼んでおいた商品の注文を忘れていたのである。広義は、凧の糸がプツンと切れるように、笑顔がきれた。
「なんでそんなミスをするんだ!?」
忘れたことそのものを、「忘れてはいけないから、これからは忘れないようにしなさいと」注意すればいいところが嫌味な口調になる。まるで、「俺だったらそんなミスはしないぞ」とでも言っているかのように。プツンときれたかのような冷たい口調の声に思わず、課の社員達が彼の方に首を動かす。彼は頭痛を感じ額を手で押さえた。しかし彼は、まわりのざわつきにはっと気付くと、いつもの優しい口調に戻り、
「とにかく、やりなおしておくように。」
と言った。彼は、自分を落ち着かせるために、飲み物でも買いに行こうと、席を立とうとした。彼は自分自身のマイナス感情に直面してはいられないのだった。しかしその時急に立ちくらみがしたのだ。彼は、意識を強く持ち、そのこともまた人に悟られないように、社員達の机の間を通り、課の出口のドアへと歩いていく。
 彼は、課の職員達がちらちらと彼を見る中、開け放たれている課のドアを出て、廊下にある自動販売機の前に行くと、ポケットから財布を取り出そうとした。その時だった。また、めまいがした。しかし、今度はめまいだけではすまなかった。体の力が抜けていくような感覚と同時に足元がぐらつく、彼は体を支えようと自動販売機に左手を伸ばした。しかし、足に力が入らない。彼はひざからがっくりと地面に着いたかと思うと、天井の模様が一周まわるのを見た。そして視界は真っ暗になり、彼はそのままばたりと横向きに倒れてしまった。書類を持って課に歩いてきていた女性社員が悲鳴をあげる。書類のバサバサと落ちる音。そして、それに気が付いた課の社員達のざわめく声。
「血が出てるぞ、救急車!」
そこまで聞いたところで彼の意識は薄れていった。

 

 

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小説・エリートサラリーマン第2回(全5回)

   彼は、エレベーターで彼の課のある8階から降りると、会社の玄関の自動ドアを出て、自分の車の停めてある駐車場へと向かった。彼は体に少し疲れを感じ、足が重く感じた。もう社員達の車も少なくなった駐車場に、ぽつんと斜め上にある街灯の光を受け、表面の輝いた彼の自慢の高級車がある。彼はドアを開け、車に乗り込むと、小さくため息をついた。

「……仕方ないか、俺は仕事が出来るんだ。あいつらより。」
彼は胸がもやもやした。言いようのない不快感を感じた。あるいは痛みだったのかもしれない。しかし、もう一度つぶやいた。
「ま、仕方ない。」
彼は車のエンジンをかけ、ライトをつけ、バックミラーの向きを直し、車をバックさせて出そうとしたが、バックミラーに前髪の乱れているのがちらりと映ると、いつもの癖で前髪を指で整える。そのとき、彼の顔がミラーに映った。つかれた表情、なんだかやつれて見える。そして、なぜか寂しそうにさえ。彼はつぶやいた。
「いけないなあ。」
そして少し首を傾げると、
「少し疲れているのかなあ。早く帰って寝るか。」とまたつぶやき、車を出そうとしたその時だった。
誰かが会社の正面に近い角の方角から彼の車に向かって走ってきていた。手には、何やら書類らしきものを持っている。車をバックさせようとしていた彼は、その姿が目に入ると車の窓を開けた。
「松田さーん。」窓が開いたのを見て、その人物は叫んだ。総務課の若い男性社員だった。彼は広義の車までたどり着くと手に持っていた書類を渡して説明しようとした。
「すみません、これ、今日中にと言われていたものなんですけど。どうしても向こう側との連絡が。」
広義は答えた、
「ああ、OK、OK。俺の方でなんとかなるようにしておくから。」
広義は、軽く右手を上げていつもの笑顔になった。
「いいんですか?本当にすみません。」
「OK、俺の机の上に置いててくれるかな。」
「はい、分かりました。」
「じゃ、お前も気をつけて帰れよ。」
「はいっ。」
広義は、総務課の社員にむかって軽く右手を挙げ、「じゃーな。」と言うと車を出そうとした。総務課の社員はぺこりと頭を下げると会社のほうに小走りに戻っていく。例えその時の体調や気分、感情面が不安定であろうとも、人が来ると自動的に笑顔になる。それが広義だった。

 家に着くと彼は、裏口の鍵を開け、家の中に入った。彼には、妻と小学4年生になる息子がいたが、夜の11時ともなると、息子はもう寝ている。そのため玄関のチャイムを鳴らすより、裏口から入るというわけだ。共働きの妻も疲れているときは早く寝ていることもあり、その日もそんな日で、彼は食卓のテーブルの上に並べてある夕食を電子レンジで温めて食べ、胃の中のものがある程度消化するまで1時間程テレビのニュースなどを見てから就寝するのが常であった。そして、今日のように夜遅く、次の日の朝が早い時は寝室ではなく居間で眠る。朝の目覚ましで子供を起こさないようにという彼の配慮であった。 最近は特に残業が多く、ここ1週間は毎日23時近くに帰宅しているため、睡眠時間が短い。それなのに眠りが浅いのか、朝になっても疲れが取れにくくなっていることは彼の気になっていることであった。何やら夢を見ているようなのだ。しかし、朝になると忙しく、思い出す余裕はない。ただ、まるで悪夢のように同じ夢を何度も見ている感覚が残っている。疲れているここ2日程はそれが顕著であった。今日は月が眩しい。彼はそれに気が付くと、少しでも早く眠れるようにと、部屋の電気を消し、カーテンも閉めた。小さな明かりがある方が眠りやすい人もいるが、彼はむしろ暗いほどに寝付きやすいタイプだった。まとわりつくような疲れを感じ、彼は居間に敷いた布団に入った。


「広義、ご飯よー。」
母の声がする。さっきご飯食べたばかりなのにおかしいな。見渡すとあたりは夕暮れだ。そして田園風景の広がる山並みと、小さな家が見える。実家だった。その家の中から半身を出し、母が手招きしている。若い母親。それもそのはず、彼は手に持っているサッカーボールが大きいようだ、ということに違和感を覚えると同時に、自分が小学校低学年くらいになっていることに気が付いた。小さな広義は、家の方に向かって駆け寄る。しかし、駆けても駆けてもなぜか家にたどり着けない。母に向かって誰かが近寄ってきた。女性のようだが、顔は塗りつぶされたようで誰だか分からない。その女性が何やら怒鳴りはじめる。
「チンピラの息子」「借金」「ビンボー人め」「迷惑かけんじゃない!」
耳鳴りみたいにわんわん響いて途中が聞き取れない。しかし、母は、その女性の前でひたすら頭を下げているようだ。
「母さん!」広義は駆け寄る、必死で走る。女性の姿は次第に薄くなっていく。やがて白いもやにかき消されるように女性が消えてしまったとき、広義はやっと家にたどり着いた。 目の前に置いてある温かい夕食達。母は広義に微笑みかける。その頬には涙の跡。
 途切れ途切れの映像は続く。外で笑い声がする。見るとさっきの顔のぬりつぶされた女性が広義と同じくらいの身長の子供の手を引いて歩いている。
「バーカ」
その子が言ったと同時に、広義と母に向かって無数の石が飛んでくる。血がしたたり落ちる。広義は叫ぶ、
「母さん!」

 場面が変わる。机に向かって懸命に勉強しているらしい小さな自分の姿が見える。部屋の隅にぽつんと取り残されたサッカーボール。 いきなり割れんばかりの拍手が降り注いだ。
「松田広義くん100点!」という声が聞こえたかと思うと、周りがぱっと明るくなった。何やらたくさんの人に囲まれている。先ほど「バーカ」と言った男の子もいた。
「100点、100点、100点……」言葉は繰り返される。光はどんどん強くなる。それにしたがって男の子の姿がどんどん薄くなる。やがて影だけになり、男の子は消えてしまった。
「100点、100点、100点……」言葉はやまびこのように繰り返され、光はますます強くなっていく、周りにいたたくさんの人々の姿も薄くなっていき、1人、また1人と消えていく。
「100点、100点、100点……」最後に母の姿が残った。母が空を指差しながら、何か言っているが聞こえない。母は広義の方を見ながら何か口を動かす。でも、聞こえない。100点の声がどんどん大きくなっていく。耳鳴りのようにがんがんと頭に響いてくる。聞こえない、分からない、思い出せない……

 

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小説・エリートサラリーマン第1回(全5回)

【小説】  エリートサラリーマン

                                     原案・執筆 蒼鳥 庵

 

 

 小さな男の子が母親に手を引かれ、田園風景の広がる山並みを背に歩いていく。辺りは夕暮れ時。近くの公園で、友達とサッカーボールで遊んでいた男の子を母親が迎えに来た帰り道だった。家から少し離れた公園は、男の子の足で15分程かかる。秋も中盤に差しかかった最近では、日が暮れるのも早くなり、歩いている間にも空はどんどん薄暗くなりはじめた。いきなり男の子が立ち止まった。それに気付いた母親が彼のほうを見ると、彼は、薄暗い空の一点を指差していた。

「お母さん、あれ。」

母親が、男の子の指差す右手の人差し指の方向をたどると、そこには薄暗くなりかけた中、光り始めた1つの星があった。

「一番星よ。宵の明星っていうの。暗くなってくると一番最初に光る星なのよ。」

「綺麗だねー。」

 それから、母親に手を引かれた男の子は、家に着くまで何度も右の方角を振り返る。辺りが暗くなるにつれて、その星の輝きは増していく。

 家についてからも男の子は、夕食の時間まで、部屋の窓からその星を見つめていた。ますます暗くなってきた空に、1つ2つ他の星達が輝きだす。そして、どんどん星の数は増えていく。それでも、一番星は輝きを失うことなく、他に埋もれることなく、いっそう強く光っていく。男の子は、その星の姿に強く心を奪われ、ずっとそれを見つめ続けていた。

 

 

 夜が明けると、彼の戦いの一日が始まる。

 彼は家族の誰よりも早く起き、手早くコーヒーとロールパンという朝食を済ませると、シャワーを浴び、20分かけて髪をセットする。そして、ビシッとアイロンのかかったシャツに着替えると、ネクタイを締め、スーツのジャケットにほこりが付いていないかをチェックし、ジャケットをはおる。そして、最後に彼は、玄関の全身が映る鏡の前で、全体のバランスをチェックした。少し明るめの紺色のスーツに、薄いブルーのシャツ、少し濃い目のラベンダーカラーの地に紫の曲線の描かれたネクタイは彼の色白の肌を映えさせ、はつらつと見せる。秋も終盤に差し掛かる11月上旬だったが、風景に合わせて街行く人々のファッションも暗い色になっていく中、少しだけ明るめの色を選択したのも計算内だった。彼は、「よし」と小さくつぶやくと、綺麗に裏まで磨かれた革靴を履き、ビジネスバッグを持つと玄関を出た。
 玄関の前の車庫に停めてあるのが彼の車で、高級車を現す3ナンバー車だ。若くして高級車を購入できるか否かは、ステータスの1つである。それは、高収入を得ているという証の1つであるからだ。彼はローンを組み、多少の無理をしてこの車を買ったのだった。彼は、よくワックスが効いている傷1つない車のドアを開け乗り込むと、てきぱきとシートベルトを閉め、車のエンジンをかけた。

 

 彼の名は、松田広義。パソコンやOA機器の営業をやっているサラリーマンだ。一流企業の代名詞とも言え、社員数も1万人を超えるS社に勤めている彼は、もともと入社時のテストと面接を好成績でクリアし、企画課に所属していた。しかし、彼の印象の良さと、たくみな話術に目をつけた人事課部長が、高級と出世を条件に営業課に移動を命じたのだった。彼は営業で好成績を上げ、早くから営業課に所属していた同僚達に引けを取るどころか、追いつき、追い上げ、追い越して、期待された以上の結果を出した。このままいけば、現在35歳で課長補佐の彼は、来年か再来年には同僚の誰よりも早く課長になるのではないか、周りはそう噂した。

 

 彼の笑顔は「完璧」だった。

 まるで10年以上、100万回鏡の前で練習したかのような笑顔であった。誰が見ても不快感を感じることはない。初めて見たものは彼の魅惑の微笑みに目と心を奪われる。きらきらと輝く瞳に、人懐こさと優しさを載せたような笑顔。彼の上品な顔立ちが生かされた、清潔かつ有能そうな格好、それにあわせてその笑顔が提供されれば、初めて会った人にすら親近感を持たせるのであった。

 しかし、彼の顔は良く見ると笑いジワがある。何百回、何千回と「同じ表情」で笑うからだ。

 

 彼の話術もまた「完璧」だった。

 さわやかな口調であるが、知的さを感じさせる。そして時に優しく、それでも真面目なまなざしで繰り広げられる彼の営業トークは、よく計算しつくされているかのようだった。分かりやすい説明に加え、最近話題になっている、業界のものが気にせざるを得ない言葉が効果的に飛び出す。そんな話を聞きながら、彼の人懐こそうな笑顔を見ているうちに、その商品がとても価値のある商品のように思えてくる。彼自身が、「自分の売っている商品は価値がある」と思い込んでいるからでもある。そう思えることは、企業で働く人にとって得になることである。

 同じ課の社員や同僚の間では、営業マンらしく、どの商品が売れ、どの商品がこれから有望であるかという話題はよく出る。彼は、自分の売っている商品は他のどれよりも価値があると思い込んでいるから、自分の売ってきた商品の話をする。そして、商品を売ってきた自分の話を。

 

 彼の仕事ぶりも「完璧」だった。

 彼は、1日の仕事のノルマをこなすと、残業として早速明日の準備に取り掛かる。この準備によって彼は、次の日のノルマを、同じ課の営業マン達よりも1件多くこなすことが出来た。その残業中に友達から電話がかかってきた。しかし、彼は「仕事をしなければならない」ので断らざるを得なかった。

 

 完璧な「笑顔」と「話術」と「仕事ぶり」を持つ彼について、ある日、同僚達がこんな噂をしていた。その日のノルマをこなせず、事務処理を残業に持ち込んでいた同僚達の噂話である。それは課のドアを出たところの廊下で話されていたことであったが、ドアが少し開いていたのだ。その声は、丁度仕事を終え、課のドアから出ようとする彼の耳に聞こえてきたのだった。

「あいつ付き合い悪いんだよ。優しそうな笑顔の中に感情は見えないね。仕事はよくやっているし出来るやつだけど、態度がイヤミなんだよな。自分の自慢多いし、商品を売っているのか自分を売り込んでいるのか時々分からなくなるよ。」

それを聞いていたもう1人の同僚がぷっと吹き出した。

 

 広義は軽くまぶたを閉じた。目の前が白くスパークしたからだった。しかし、彼は「完璧」だ。そのまますっとドアを開け、課を出ると、廊下にいる同僚に軽く目をやり、いつもの笑顔で「おつかれ」と言って通り過ぎて行った。同僚達は一瞬たじろいだように目を泳がせたが、少し慌てた声で「おつかれ」と彼の背中に向かって返した。

 

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