動物愛護関連の情報と、独学ピアノの記録。

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ベジタリアンに市民権を

「感覚の差がない(小さい)のに結果(肉食するかしないか)の大きな差はなぜ生まれるのでしょう?あらたな疑問です。」

ミクシでの人々のやり取りの中、芝生と同じようにひよこを踏みつけられるかという話などの中で、ある人がこういう疑問を書かれていました。その人が最初に思っていたのとは違い、意外にベジタリアンの人と非ベジタリアンの人の感覚の差はないと思ったという話でした。
確かに僕もそうだなと思います。
ベジタリアンであろうがなかろうが、ひよこは踏みつけられない。
ベジタリアンであろうがなかろうが、植物も命だと知っているし、植物も大切にしている。
全くそうなんですよね。そう思って、以下のことをレスしました。

「これ、面白い疑問だと思ったので考えてみました。この感覚が全員に当てはまるとかではなく、個人的な経験ですが、質問を見て、考えたので書かせていただきます。
僕は、1年前までは普通に肉を食べていましたが、捨て犬を拾って育ててからベジタリアンになったものです。
その犬は、自分にとってかけがえのない存在になりました。

もちろん、自分の愛犬を食べることなど考えられません。
同様に、牛もやきもちを焼いたり、人間を愛したりするという話を思い出し、愛犬と同じだと気が付いたときから僕は肉を食べられなくなりました。
そして、牛には、1頭1頭違う模様がついていることに気が付きました。
それは愛犬のぶちもようと同様でした。
犬も人同様に、1匹1匹が個性ある存在で、世界に1つとして同じものは存在しない。
それはまた、牛も同様。
「人間=愛犬=牛」と考えたときから僕は肉を食べれなくなったのです。今は、犬を大切にしながら、牛などの肉を食べているという自分の中での不自然さを感じずに楽になりました。

植物も育てたことがありますが、そのときはそこまでは感じませんでした。もちろん大切にしていましたが、枯れてしまっても、やはり墓をつくって泣いたりはしなかったです。そういう意味でも、スズランが枯れるのと、愛犬が死ぬのは大きな差ですね。」

この文章を読んでも、めずらしい感覚だと驚かれる人は少ないと思います。むしろ、愛犬を食べるとか、スズランが枯れたから墓を作って泣いたという人がいれば、そっちのほうがめずらしいかと。

こういう、奇異なものでも他者に迷惑をかけるものでもないに関わらず、日本ではベジタリアンに市民権がありません。どこにいっても普通に肉が出される。最近、式典に参加する機会が多く、ほとほと嫌になりました。昔は肉が大好きでした、しかし今は、肉だけはもう絶対に食べられません。

僕は基本ヴィーガン(動物性の食品をいっさいとらない)です。卵や牛乳をとらないのは、なぜ?といわれることが多いのだけれど(実際に、卵と牛乳はとるというベジタリアンも多い)、彼らの扱われ方が酷いためです。現実として、めんどりだけを残すために、オスのひよこは生きたままシュレッダーにかけられたりしています。

忙しい時期、どうしても他者と外で食事をとることになってしまうと、大変困ります。他人に食うなとか言ってないのに、なぜ他者からは食えという無言の圧力があるのか。(選択肢がないという意味で)。

まだまだ、ベジタリアンが食の選択を普通に出来る時代は日本では遠いな。

人の目に触れて、理解を得るために、こうして時々、記事にしていくほうがいいのかなと思います。

今まであまり書かなかったのは、日本人は、自分とは違う考え・感覚・感じ方を見ると、自分が否定されたと思いこみ攻撃してくる人がいてやっかいだからです。日本はマイノリティが存在しにくい国ですね。他の面でも僕はマイノリティーとされるところが1つあるので実感しているのですが、それは「無いもの」として扱われます。しかし、実際は、一般に認知され、カテゴライズされたものしか存在してないわけではないのです。
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