タン タン タン タン ボールを地面に叩きつけるような音が響く
タン タン タン タン 永遠に続くかと思われるような音
広義は眠っている間、ずっとその音が聞こえていた。心地よい音、広義の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
やがて暗闇の中で、白と黒の六角形をつなぎ合わせた、丸いサッカーボールがぽつんと浮かぶ。子供の頃、夢中で遊んだサッカーボール。公園で日が暮れるまで遊んだサッカーボール。
あの日、僕はサッカーをやめた。
「もうサッカーはしないの?」
「うん」
「嫌いになったの?」
「……」
違うよ!サッカーやりたいよ!
心のどこか奥で響く声、彼はそれを置き去りにした。何事もなかったと思い込んだ。いつしか、部屋の隅にぽつんと置かれたままのサッカーボール。まるで、彼の心の隅にぽつんと残った思いのごとく。
タン タン タン タン ドカン!
衝撃が走った。
「何をしているの!」麗美の声がする。
「病院にそんなもの持ってきちゃダメじゃない。」麗美が息子の優をたしなめる声。
「いいんですよ。私が持ってきたんですから。」
広義は、ベッドに何かが当たったような衝撃と、聞きなれた、でもなつかしい声に目を覚ます。そこには、広義の母の小夜子と、広義の息子の優がいた。広義が目を開けたことに気付いた小夜子は、広義の寝ているベッドの傍に行き、話しかける。
「広義、倒れたと聞いてびっくりして慌てて駆けつけたのよ。でも、思ったより顔色いいじゃない。この間、スーツ姿の貴方に会ったときよりも元気に見えるくらいよ。」
小夜子は少し安心したのか、明るくそう言った。
「パパ、サッカーしよう。」優が言う。
「バカね、出来るわけないでしょ、パパは病気なのよ。」と麗美。
「知ってるよ、治ってからだよ。すぐ治るんでしょう?パパいつも元気じゃない。」
あれは、サッカーボールだったのか。ベッドの脚に感じた衝撃について広義は思う。
「良くなったら、遊ぼうな。」広義が優に優しく言う。
「約束だよ、パパいっつも遊んでくれないんだから。」
優はまたボールを床につき始めた。
「い・け・ま・せ・ん。病気のパパに当たったらどうするの。」
優はちょっとすねたようだが、小夜子が紙袋を開くと、素直にボールをその中に入れた。広義は、その姿を口元に微笑を浮かべて見守る。その表情はいつもの「完璧な」笑顔とは違う穏やかな笑みだった。
「あ、そうそう。」
小夜子が、その紙袋の奥に両手を入れ、もう1つ何かをとり出した。それもサッカーボールだった。しかし、先ほど優が遊んでいたものよりずっと古く汚れている。広義の目が、驚きとなつかしさで見開かれていく。
「これね、あなたが倒れて意識不明だと聞いて、もしあなたの意識が戻らなかったらどうしようって思って持ってきたの。この感触を感じれば目を覚ますんじゃないかって思って、ただ無我夢中でつかんで持ってきたのよ。あなた、子供の頃、急にサッカーやめてしまったけれど、大好きだったから、すごく楽しそうだったから、もしかしたら気が付くんじゃないかなんて思って。幸い必要じゃなくって安心したけどね。」
広義は、母の持つボールの方へ手を伸ばした。
「借して」
小夜子は、広義にボールを渡す。それを受け取った広義は、ボールの感触を両手で感じた。なつかしい感触、ボールに夢中だった頃の。
「よく遊んでたもんなあ。」
広義は瞳を穏やかに輝かせる。広義は、ボールを軽く右手で投げ、頭でトンとはじいた。
「何をしているの!安静にしてないとダメじゃない。」
麗美が声をはりあげると、広義は少し舌を出していたずらっぽく笑った。
それから1ヶ月が過ぎ、広義は点滴を打たなくてもいいまでに回復し、退院することになった。しかし、病院であまり動くことはなかったために、体力が落ちていることは明らかであった。退院直後のリハビリも兼ねて、広義は約束どおり息子とサッカーをすることにした。
昼食を取ってしばらく休憩し、日中を過ぎた午後、優と2人で近くの公園に向かう。その途中、優が言った。
「僕ね、ずっとパパと遊びたかったんだよ。でもパパって日曜日もいないんだもん。」
広義は困った。「そっかー」、と言い、軽く苦笑する。思わず、優や麗美のためだと言おうとしたが、それは偽善だと思った。現に妻は共働きだというのに、自分の仕事が終わってからも帰りの遅い広義、休日さえも時に出勤している広義のために、夕食を準備して家事も全部こなしている。昔は小さな優の世話まで全部やらざるを得なかった。そして、今は優が全然遊んでくれない父親だと言っている。現在の収入は十分で、貧困とは遠い。毎日のように残業する理由は家庭にはない。
公園についた2人は、向かい合って互いにボールを蹴りあった。優はまだボールになれていないため、広義のいる場所とは3メートルも離れたところにボールを蹴ってしまったりする。その度に広義はボールを拾いに行くのだが、ボールを拾い、元のポジションに戻る途中、軽快にボールをさばいてみせる。優から見ると、それは手品のようだった。
「パパ上手いなあ。」
優が感心する。
「パパは昔サッカーをやっていてね、サッカー選手になろうかなあって思ってたんだよ。」
「へえ、じゃあなんでサラリーマンってやつなの?」
「それはね……」
広義にも分からなかった。
「もしかしたら会社から、周りから望まれるままかもしれないな……そして、勝つためだったのかもなあ……」
「それって楽しい?なんで勝たなくちゃいけないの?」
「楽しくは……ないよ。むしろ……」
苦しいさ。広義は、そう言いそうになった自分に驚いた。今まで、それを「苦痛」とは感じたことがなかったからだった。仕事を離れるほうがよりいっそう不安だったのだから。
広義はボールを高く蹴り上げた。
2度、3度、空に向かって思い切り蹴り上げる。息子が手を叩く。日が傾いた辺りは、薄暗くなりかけている。5度目、広義は今まで以上に思い切りボールを蹴り上げた。空に一番星が光っている。広義の蹴ったボールが一番星に重なる。その時、広義には、まるでサッカーボールが一番星のように輝いて見えた。
広義の胸に、ずっと夢の中で思い出そうとしても思い出せなかった言葉が、あの言葉がよみがえってきた。彼と一緒に、一番星を見つめていた夕暮れ時、母は一番星を指差して、広義にこう言ったのだ。
「あなたが好きなことをして目を輝かせていることが、あなたの心からの笑顔を見ていることが私には幸せなの。好きに生きて。私は広義が大好きだから。」
「サッカーをやっていることが楽しいよ。」
広義は、空から輝きながら落ちてくるサッカーボールを両手で受け止めると、言った。
「ねえ、パパ」優が言う。
「僕、負けてもかっこいいパパが見たいよ。」
広義は笑った。
「負けてもかっこいいか、考えたこともなかったな。今度から、それを目標にするか。」
目標、彼はいつもそれに向かって突っ走ってきただろう。だけど、勝つことを、全てにおいて優れることのみを目標にしてきた彼が今、そう言って楽しそうに笑うのだった。その表情には、今までのただきらきらした笑顔に加え、心の輝きを感じさせる瞳があった。
1ヶ月後、広義は仕事に復帰していた。コーヒーとロールパンにサラダという朝食を済ませるとシャワーを浴び、20分かけて髪をセットする。そして、ビシッとアイロンのかかったシャツに着替えると、ネクタイを締め、スーツのジャケットにほこりが付いていないかをチェックし、ジャケットをはおる。そして、最後に彼は、玄関の全身が映る鏡の前で、全体のバランスをチェックした。黒に近いグリーンのスーツに、薄いグリーンの地のシャツ、1月という新年の期間らしくエンジ色の地のネクタイに和風の花が上品に小さく1つ描かれたネクタイが、広義の色白の肌を映えさせ、はつらつと見せる。広義は、「よし」と小さくつぶやくと、綺麗に裏まで磨かれた革靴を履き、ビジネスバッグを持つと玄関を出た。
玄関を出ると、ビジネスバッグにサッカーの試合のチケットが2枚入っていることを確認する。今日は、午後3時から有給休暇をもらうと、会社からまっすぐ優の小学校に優を迎えに行き、スタジアムでサッカーの試合を見ることになっていた。
広義は玄関の前の車庫に停めてある彼の3ナンバー車に乗り込むと、テキパキとシートベルトを閉め、会社までの道を運転する。
よく晴れた早朝の空には、明けの明星があった。
彼の心の星は、彼にとっての本当の彼の姿は、たとえ彼からは見えない時でも、たとえ今輝いていなくても、いつも彼の心の宇宙に存在している。いつでも見守っていたし、これからも見守っているよ。まるで、そう告げるかのように優しく、白く、明けの明星は空に浮かんでいた。
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