お久しぶりです。忙しい時期が過ぎ、なんとなく散らかった部屋の中を片付けました。部屋が片付くと心もすっきりします。とはいえ元々、ほとんど部屋の中にはいつも何もないのですが。
忙しい日々の中でも、寝る前に少しづつ本を読んでいました。そしてやはり自分には海外純文学の精神世界が一番しっくりくるなと思う日々でした。海外の古典の中で、その作品の奥に横たわる精神世界にはとても惹かれます。ここが自分の居場所だと言っても過言ない感じです。これからしばらく世界の名作を原作で読んでいこうと思います。
今回は、アンデルセンの「絵のない絵本」の感想です。
アンデルセンの名前は童話作家の中では最もポピュラーといえるだろう。しかし、アンデルセンの原作を読んだことがある人はどれだけいるであろうか。童話として絵本にされて文章が省略されている作品でも人間性の深遠な真実が表現されていて、達観した視点に感じられるものである。しかし、それがよりはっきりと分かるのはやはり文章の省略されていない原作のほうだと思う。そしてとりわけ、この作品のようにアンデルセンでは長編というものになってくると、元々象徴的表現が得意で、短い言葉で絵的に人間の普遍的な真実を語るのが上手いアンデルセンの根底に流れる思想が豊かに、それでも流れるように、人間や世界を見つめる全体的な視点が余すことなく伝えられている。
「絵のない絵本」は月が地球を周りながら、見聞きしたことを語る話である。月明かりが地表をなでていくように、さらりさらりと話は流れていく。しかし、おっとりした童話なのかとぼんやりしているとしてやられる。33の小パートに分けられた物語は、月視点から、幸も不幸も生も死も、人間の活動を見つめ語り続けられる。1つ1つの物語は美しかったり哀しかったり、躍動感に満ち、生き生きとしている。静と動、哀と楽、明と暗。そんな人間達の人生の姿を月視点から見つめ続けるアンデルセンは、登場人物たちを優しく照らしながらもクールである。つまり達観している。あるときは月である自分にしか見えなかった1面として歴史を語る。しかしあるときは、月である自分にも見えなかった面があるとして語る。地上で色んな物語が生まれ、そして消えていく。その様は日本の言葉で言えば「諸行無常」だといえるだろう。
うん、ぞくぞくしたよ。
「死に至る病」 セーレン・キルケゴール著 解説と感想
1.罪とは何か
僕は、この上下段に分かれていて125ページの本「死に至る病」という哲学書を、1ページにつき10~15分かけて読んだ。この本は、1文1文の記述が人間性の、そして各々の人間のどのような部分を指しているのかを「内省」したり今までの経験を想い巡らせながら読む本だと僕は思った。この本には日本人にはなじみにくいキーワードがいくつか登場する。それらの言葉によるイメージから想像して引く人もいるかもしれないので最初に説明しておこう。日本には宗教がほぼ存在しないと言ってもいいだろう。私利私欲を肥やすための新興宗教が蔓延し、危険を伴ったこともあるために、逆に「宗教とか神とか聞くだけで怖がって大騒ぎする宗教」が日本に蔓延するかのようになってしまった。しかし、そのような言葉のイメージに惑わされずに、キルケゴールが言わんとするところの「神」とは、そして「罪」とは何かを想ってみる。耳を、いや「心」を傾けるのだ。言葉の単語そのものは同じでも、使い手によって大きく意味は違ってくるものだ。
「罪とは何ぞや」、これを簡単な例で説明すれば、誰もいないところに金の入った財布が落ちていたとしよう。それを持ち去ってもばれなければ確かに「法律」では罪に問われない。では、法律ないところに罪はないというのか?キルケゴール言うところの罪の対義語は法律ではない。人が決めた立法ではない。ではどういうものか。人は自らの良心と罪悪感というものを持つことが出来る。心から反省する、心改める、立ちなおる、かつての罪に心を痛め悔恨の涙を流すことも出来るのはそのためである。それは理屈ではなければ、また感情そのものとも違ったものではないかと思う。利己的になりえる部分とは違ったものではないのだろうか。
2.実存と単独者
キルケゴールは「実存主義」に分類されている。キルケゴールは「人間は神の前に立つ単独者」だと言った。ここで、実存と単独者の意味について解説したいと思う。ニーチェ、サルトル、小説家ではカミュ、ドフトエスフキーなどと共に分類される実存主義とは何か。このことはこの後解説する「単独者」という言葉の意味を理解して頂ければ、○○主義を振りかざす「単独者」というのは矛盾しているためにありえないということが、おのずと理解されることでもあるだろうが、キルケゴールが自分は実存主義などと言ったわけではない。それは後々に付けられた名称であるに過ぎない。
「実存主義」
”そこにおいては「私(現実に生きている”私”)」は死を究極点とする様々な事象の関連性の中に浮かび上がる現象として捉えられ、私の生を他者と取り替えることのできない貴重なものとして充実させることこそが、人生の意味であるとされた。そして充実させるためには関連性の中で他者や自分自身を非道具的なものとして尊重することが大事だと説かれた。”
Wikipediaでは上記のような説明があった。ここで、このようなコピーではなく僕は「実存して」説明させて頂こう。実存とは、自己自身と自己自身の在り方を真摯に見つめ、自己自身を自己自身として受け入れ、また自己として誇り高く在れるような選択をしていくことだと僕は思った。
次に、「人間は神の前に立つ単独者」について。日本には、「八百万(やおよろず)の神」というものがあるように、聖書ではこの世界は「神」が創ったものとされている。何をもいとわず生命を与えてくれる植物達、そして自然、光。これらの無償の愛の前に立つとき、その無償の愛の前で人が自己を省みる。日本人に分かりやすい形で、「神」の前に立つというのを分かりやすく言えばそういうことだと思った。自己自身の中の光と、それによる罪の意識の自覚によって人は目覚めるのだ。”自己自身と、その中に降り注いでくる光に恥じぬ生き方を選択していく”こと。また、人間の利己的な欲望を「原罪」(人の罪の原型、聖書では「失楽園」の理由として表されている。ギリシャ神話では「パンドラの箱」であろう。)として各々が受け止めていくということであると思う。僕もまた、自己とその中の光に問おう、原罪を含んだ罪深き自己を受け止め、与えられた生命を与えられたものとして大切にしながら、人として誇り高く生きられるような選択をしているかどうか、と。
あとがき
僕が書いた「永遠の孤独」という詩はこの本を読むより先でした。あの詩をひらめいたときに、まだ読んだことのなかったキルケゴールの「人間は神の前に立つ単独者」という言葉(読んではなくてもその言葉は知っていました)が同時に浮かんだのです。それで前々から気になっていたキルケゴールを読んでみようという気になったのでした。
タン タン タン タン ボールを地面に叩きつけるような音が響く
タン タン タン タン 永遠に続くかと思われるような音
広義は眠っている間、ずっとその音が聞こえていた。心地よい音、広義の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
やがて暗闇の中で、白と黒の六角形をつなぎ合わせた、丸いサッカーボールがぽつんと浮かぶ。子供の頃、夢中で遊んだサッカーボール。公園で日が暮れるまで遊んだサッカーボール。
あの日、僕はサッカーをやめた。
「もうサッカーはしないの?」
「うん」
「嫌いになったの?」
「……」
違うよ!サッカーやりたいよ!
心のどこか奥で響く声、彼はそれを置き去りにした。何事もなかったと思い込んだ。いつしか、部屋の隅にぽつんと置かれたままのサッカーボール。まるで、彼の心の隅にぽつんと残った思いのごとく。
タン タン タン タン ドカン!
衝撃が走った。
「何をしているの!」麗美の声がする。
「病院にそんなもの持ってきちゃダメじゃない。」麗美が息子の優をたしなめる声。
「いいんですよ。私が持ってきたんですから。」
広義は、ベッドに何かが当たったような衝撃と、聞きなれた、でもなつかしい声に目を覚ます。そこには、広義の母の小夜子と、広義の息子の優がいた。広義が目を開けたことに気付いた小夜子は、広義の寝ているベッドの傍に行き、話しかける。
「広義、倒れたと聞いてびっくりして慌てて駆けつけたのよ。でも、思ったより顔色いいじゃない。この間、スーツ姿の貴方に会ったときよりも元気に見えるくらいよ。」
小夜子は少し安心したのか、明るくそう言った。
「パパ、サッカーしよう。」優が言う。
「バカね、出来るわけないでしょ、パパは病気なのよ。」と麗美。
「知ってるよ、治ってからだよ。すぐ治るんでしょう?パパいつも元気じゃない。」
あれは、サッカーボールだったのか。ベッドの脚に感じた衝撃について広義は思う。
「良くなったら、遊ぼうな。」広義が優に優しく言う。
「約束だよ、パパいっつも遊んでくれないんだから。」
優はまたボールを床につき始めた。
「い・け・ま・せ・ん。病気のパパに当たったらどうするの。」
優はちょっとすねたようだが、小夜子が紙袋を開くと、素直にボールをその中に入れた。広義は、その姿を口元に微笑を浮かべて見守る。その表情はいつもの「完璧な」笑顔とは違う穏やかな笑みだった。
「あ、そうそう。」
小夜子が、その紙袋の奥に両手を入れ、もう1つ何かをとり出した。それもサッカーボールだった。しかし、先ほど優が遊んでいたものよりずっと古く汚れている。広義の目が、驚きとなつかしさで見開かれていく。
「これね、あなたが倒れて意識不明だと聞いて、もしあなたの意識が戻らなかったらどうしようって思って持ってきたの。この感触を感じれば目を覚ますんじゃないかって思って、ただ無我夢中でつかんで持ってきたのよ。あなた、子供の頃、急にサッカーやめてしまったけれど、大好きだったから、すごく楽しそうだったから、もしかしたら気が付くんじゃないかなんて思って。幸い必要じゃなくって安心したけどね。」
広義は、母の持つボールの方へ手を伸ばした。
「借して」
小夜子は、広義にボールを渡す。それを受け取った広義は、ボールの感触を両手で感じた。なつかしい感触、ボールに夢中だった頃の。
「よく遊んでたもんなあ。」
広義は瞳を穏やかに輝かせる。広義は、ボールを軽く右手で投げ、頭でトンとはじいた。
「何をしているの!安静にしてないとダメじゃない。」
麗美が声をはりあげると、広義は少し舌を出していたずらっぽく笑った。
それから1ヶ月が過ぎ、広義は点滴を打たなくてもいいまでに回復し、退院することになった。しかし、病院であまり動くことはなかったために、体力が落ちていることは明らかであった。退院直後のリハビリも兼ねて、広義は約束どおり息子とサッカーをすることにした。
昼食を取ってしばらく休憩し、日中を過ぎた午後、優と2人で近くの公園に向かう。その途中、優が言った。
「僕ね、ずっとパパと遊びたかったんだよ。でもパパって日曜日もいないんだもん。」
広義は困った。「そっかー」、と言い、軽く苦笑する。思わず、優や麗美のためだと言おうとしたが、それは偽善だと思った。現に妻は共働きだというのに、自分の仕事が終わってからも帰りの遅い広義、休日さえも時に出勤している広義のために、夕食を準備して家事も全部こなしている。昔は小さな優の世話まで全部やらざるを得なかった。そして、今は優が全然遊んでくれない父親だと言っている。現在の収入は十分で、貧困とは遠い。毎日のように残業する理由は家庭にはない。
公園についた2人は、向かい合って互いにボールを蹴りあった。優はまだボールになれていないため、広義のいる場所とは3メートルも離れたところにボールを蹴ってしまったりする。その度に広義はボールを拾いに行くのだが、ボールを拾い、元のポジションに戻る途中、軽快にボールをさばいてみせる。優から見ると、それは手品のようだった。
「パパ上手いなあ。」
優が感心する。
「パパは昔サッカーをやっていてね、サッカー選手になろうかなあって思ってたんだよ。」
「へえ、じゃあなんでサラリーマンってやつなの?」
「それはね……」
広義にも分からなかった。
「もしかしたら会社から、周りから望まれるままかもしれないな……そして、勝つためだったのかもなあ……」
「それって楽しい?なんで勝たなくちゃいけないの?」
「楽しくは……ないよ。むしろ……」
苦しいさ。広義は、そう言いそうになった自分に驚いた。今まで、それを「苦痛」とは感じたことがなかったからだった。仕事を離れるほうがよりいっそう不安だったのだから。
広義はボールを高く蹴り上げた。
2度、3度、空に向かって思い切り蹴り上げる。息子が手を叩く。日が傾いた辺りは、薄暗くなりかけている。5度目、広義は今まで以上に思い切りボールを蹴り上げた。空に一番星が光っている。広義の蹴ったボールが一番星に重なる。その時、広義には、まるでサッカーボールが一番星のように輝いて見えた。
広義の胸に、ずっと夢の中で思い出そうとしても思い出せなかった言葉が、あの言葉がよみがえってきた。彼と一緒に、一番星を見つめていた夕暮れ時、母は一番星を指差して、広義にこう言ったのだ。
「あなたが好きなことをして目を輝かせていることが、あなたの心からの笑顔を見ていることが私には幸せなの。好きに生きて。私は広義が大好きだから。」
「サッカーをやっていることが楽しいよ。」
広義は、空から輝きながら落ちてくるサッカーボールを両手で受け止めると、言った。
「ねえ、パパ」優が言う。
「僕、負けてもかっこいいパパが見たいよ。」
広義は笑った。
「負けてもかっこいいか、考えたこともなかったな。今度から、それを目標にするか。」
目標、彼はいつもそれに向かって突っ走ってきただろう。だけど、勝つことを、全てにおいて優れることのみを目標にしてきた彼が今、そう言って楽しそうに笑うのだった。その表情には、今までのただきらきらした笑顔に加え、心の輝きを感じさせる瞳があった。
1ヶ月後、広義は仕事に復帰していた。コーヒーとロールパンにサラダという朝食を済ませるとシャワーを浴び、20分かけて髪をセットする。そして、ビシッとアイロンのかかったシャツに着替えると、ネクタイを締め、スーツのジャケットにほこりが付いていないかをチェックし、ジャケットをはおる。そして、最後に彼は、玄関の全身が映る鏡の前で、全体のバランスをチェックした。黒に近いグリーンのスーツに、薄いグリーンの地のシャツ、1月という新年の期間らしくエンジ色の地のネクタイに和風の花が上品に小さく1つ描かれたネクタイが、広義の色白の肌を映えさせ、はつらつと見せる。広義は、「よし」と小さくつぶやくと、綺麗に裏まで磨かれた革靴を履き、ビジネスバッグを持つと玄関を出た。
玄関を出ると、ビジネスバッグにサッカーの試合のチケットが2枚入っていることを確認する。今日は、午後3時から有給休暇をもらうと、会社からまっすぐ優の小学校に優を迎えに行き、スタジアムでサッカーの試合を見ることになっていた。
広義は玄関の前の車庫に停めてある彼の3ナンバー車に乗り込むと、テキパキとシートベルトを閉め、会社までの道を運転する。
よく晴れた早朝の空には、明けの明星があった。
彼の心の星は、彼にとっての本当の彼の姿は、たとえ彼からは見えない時でも、たとえ今輝いていなくても、いつも彼の心の宇宙に存在している。いつでも見守っていたし、これからも見守っているよ。まるで、そう告げるかのように優しく、白く、明けの明星は空に浮かんでいた。
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松田広義。松田小夜子の1人息子。彼は父親を知らない。彼が生まれてすぐに父は家を出て行ったのだから。父はどこぞやのヤクザの下っ端だったという噂があったが、真相は定かではない。母の小夜子は親戚に借金までして苦労して彼を育てた。小夜子の家ももともと貧しかった上に、小夜子の母は病気で入退院を繰り返していたのだ。そんな中、親戚の中でも息子のことをチンピラの息子だと言われたり、なかなか返せなかった借金を早く返すようにと嫌味を言われ続けていた母は、広義にそれを気付かれまいとして、彼の前ではいつも笑顔であった。
彼は、母が時々部屋で1人泣いているのを見たことがあった。広義が小学生になったある日のことである。広義と同じクラスで、広義の従兄弟にあたる和紀が家の前に来て「チンピラー」とはやし立てたのである。それを聞いて、家の前でサッカーボールで遊んでいた広義は、思い切り和紀に向かってボールを蹴った。それは和紀の顔面に当たり、彼は鼻血を出して倒れた。
和紀の母は激怒した。そして、謝罪を求めに来た際にいつまでも嫌味を言い続け、ついに広義の前で、「チンピラの息子だから態度も頭も悪いんでしょ。借金返しなよ、親戚一同の恥だわ。」とまで言ったのである。母親は涙をこらえきれなかった。広義が、ごめんなさいと謝ると、無理して笑顔を作りながらも流れ落ちる涙を止めることは出来なかった。
広義は猛勉強した。その日から。追いかけてくる「恥」という言葉を振り払うかのように。そして、次の算数のテストで100点を取ったのだった。クラスで1人。息子の成績を鼻にかけていた和紀の母は、それはまぐれだと言いまわった。しかし、広義の好成績は続く。そしてとうとう、学年でも評判の秀才とまで言われるようになると、和紀の母は息子の成績の良し悪しについて触れることが出来なくなった。
母さん、そして母さんの愛した父さんも僕を自慢して歩いて下さい。恥なんかじゃありません。あなた方が恥だと感じたことは、必ず僕が消して見せます。彼は、家族のトロフィーのように自らを飾り付けた。学業成績、ファッション、ヘアスタイル、笑顔、表情、動き、話し方。全てを優雅でスマートかつ知的に、そしてさわやかに飾りたてる。皆が振り返る。やがて誰も彼を笑えないどころか一目置くようになった。
テストの点数はおろか、スポーツの成績、服や持ち物の趣味のよさ、バレンタインデーのチョコレートの数まで、彼の右に出るものはいなかった。しかし、それは、全てに勝たねばならないという無意識の強迫観念と、それによる努力の結果だった。
まぶたの裏側、星がちらつく。薄闇の中、星がまたたく。俺の星はどこだろう……どれだったのだろう……薄闇の中さまよい歩く。
「広義、広義!」
誰かの呼ぶ声がする。妻の声?
あれ?仕事をしていたはずだったが……。彼は自分のまぶたが重く感じることに気が付いた。こんなことをしている時ではない!彼は、重さに逆らって目を開こうとする。やっと開かれた目の前には、眼鏡をかけた見知らぬ男の顔があった。よく見ると、その男は白衣を着ているではないか。医者?そして、その隣では妻が心配そうな表情でこちらを見つめている。
「気がつかれましたね。」
白衣の男は、彼を見て淡々と言った。
「極度の疲労とストレスにより、全身の毛細血管の破裂を引き起こしています。胃潰瘍も併発していますね。以前から疲れを感じてはいませんでしたか?」
広義は、自分が今、病院のベッドの上にいて、目の前の男が医者であるということを認識すると、答えた。
「はい、多少。」
多少のはずはないのだが、疲れた態度を人前で見せることが出来ない彼のいつもの癖である。医者は続けた。
「全治2ヶ月はかかります。場合によってはもう少しかかるかもしれませんが様子を見ましょう。まず1ヶ月は入院ですね。」
広義は諦めたかのようにため息をついた。2ヶ月も治らないとなれば、仕事はどうなるか分からない。少なくとも来年までに課長になるのは絶望だろう。広義はぼんやりしていた。
病室には検査器具が持ち込まれ、まず血圧が測られた。血圧の最低値、最高値とともに多少高いもののほぼ正常値であった。
「職場高血圧と呼ばれるものです。職場での過度なストレスにより、血圧が上昇する症状です。」
医者の説明が耳に入ってくる。しかし、広義はぼんやりとしたままだった。
広義の妻の麗美が、病院に広義の着替えなどの荷物を運び、入院の準備が終わる頃には面会時間も終わろうとしていた。麗美が、
「あなたのお母様には連絡しておいたわよ。新幹線で向かうということだから、明日の朝には来るそうよ。」
と言うと、彼はぼんやりしたまま小さくうなづいた。日が暮れかけていた。
「カーテン閉めておく?」とたずねる麗美に広義は、
「いや、開けておいて。」と言い、少しの間の後に、
「することもないし、星でも見ながら眠ろうかなあ。」
とつぶやくように言った。麗美は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに少し微笑んで、
「めずらしいじゃない。」と返した。
麗美が病室を後にすると、広義は、星の輝きだした窓の外を眺めた。少しずつ辺りが暗くなる。夜空に、一番星が輝き出す。そして、1つ、2つ、3つ周囲の星が輝き始める。宵の明星は周囲の星を明るく導くように、よりいっそう明るくなる。広義は、ぼんやりと星を見つめながら、まるで子供の頃にそうしたのを思い出したかのように、右手の人差し指で星を指差した。震える手で。そしてつぶやいた。
「サラリーマンとしての俺。課長補佐としての俺。家庭の父親としての俺。生徒会長だった俺。陸上競技のインターハイの代表選手だった俺……ただ勝ってきた、働いてきた……」
そして次に出てきた言葉は、普段の彼ならまず口にしない言葉だった。
「俺の人生これでいいのか……ただ働いている、出世もした、来年は課長になって……これでよかったのか、まだ他に何かあったんじゃないかな……」
その彼の姿は儚く、夜空に消え入りそうに見えた。毛細血管が切れ斑点を残したままの右腕で、宙をさまよう彼の指先。だんだん意識がもうろうとしてくる。
ただ勝ってきた がむしゃらに勝ってきた
幸せになれると信じて いや、それしかなかった
一番だよ 誰にも負けないよ
ねえ僕を見て
皆が僕を振り返るよ 星をみるように目を輝かせて 皆が振り向くんだ
母さん 父さん もう大丈夫だよ 恥ずかしくないよ
顔を上げて 悲しい顔をしないで
僕が家族の星になるから 誰よりも輝くから
ねえ 僕を見て 僕を愛して
「そうだよ 俺は 一流企業の エリートサラリーマン……」
彼はそのままぐったりと力尽きたように目を瞑り、眠りに落ちていった。
夜空に輝く一番星 暗闇照らす一番星
あの星になりたくて あの星になりたくて
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